とある山奥の廃校へ行ってきました。明治7(1874)年開校、昭和49(1974)年統合、昭和53(1978)年に新校舎へ移転、平成25(2013)年閉校。こちらが正確で、動画では学校の沿革について簡略化してます。児童総数は明治15年時には83名、記録にある中で最も多い時には189名、統合時は93名、閉校時は8名でした。この建物は昭和53年まで使われていた旧校舎になります。
【廃校】S小学校の木造〇×△
旧校舎というとお化けや七不思議など霊的な香りがします。子供の頃は遊び場として裏山とか旧校舎があったらいいなとは思ってました。大人になってそこへ行くというのは何やら不思議な気分です。

校舎の入口に『鈴木博三郎先生之碑』があります。調べてみてもこの方がどんな人かは分かりませんでした。ただ、この学校に最初に赴任した教員の記録はありました。安芸広島出身の元医者『林文斎』さんです。明治7年の開校当時63歳と今ならもう定年退職している年齢でした。明治15年に小学校教員免許の資格が出来るまでは、今でいう教育委員会の推挙によって教員が決められていました。
『林文斎』さんの月俸は4円で現在の価値に直すと約105,000円。明治8年の給与所得者の平均年収の1/3でした。なんせ明治5年に学制が公布されたばかりです。教員は新しい職業であり、どれほど重要な仕事なのか、どれくらいの給料が適正なのか定かでなかった時代なので仕方ないことです。
動画では暗くて見え辛かったので補足しますと昇降口、現在の玄関を開けたら16畳一間。ソファや暖房器具、その奥には冷蔵庫や流しなどがありました。隣に綺麗な公民館があっても地域住民が旧校舎を利用していたことが窺えます。
そこを通り抜けると間仕切りがなく、舞台を備えた大きな広間に出ました。ここは旧校舎だと思っていましたが、実際には体育館だったのかも。この小学校は最盛期には189名の児童が通っていました。全員参加の式典や雨の日の朝礼などを行う際にはこの大きな広間ですら手狭だったと想像できます。
学校の沿革によると「昭和23(1948)年に3教室分の校舎増築、昭和24(1949)年に給食室完成、昭和33(1958)年に西側校舎の屋根を瓦葺に改装」とあります。動画の建物以外にも幾つかあったことは確かです。それは1978年頃の衛星写真でも確認できます。教室や給食室が取り壊される中、ココだけは利用価値があると判断されたのでしょう。現実に新校舎へ移転してから43年経ってもまだお囃子の稽古や集会などに使われているわけですから。
そう、学校だったのは43年も前のことです。そのため学校らしい物は少数に留まりました。かつての校章や音楽室の黒板、児童が描いた絵や学校関係者一覧など。ちょっと残念でしたけど、その代わりに閉校後もこの場所で地域住民の営みがあること強く感じられました。
玄関開けたら見知った顔ばかりの憩いの間。大広間では祭りやお囃子に向けて子供や男達が大きな音と汗を出す。それを終えるとお母さん達が作ってくれた料理を囲み、ビールやアイスも加えて皆で楽しむ。太陽光の差し込む窓を開け放てば爽やかな風が通り抜ける。疲れた体に心地良く、縁側で、あるいは舞台上で、時には床上でうたた寝をしてしまう。
そんな賑やかで和やかで穏やかな時間があったのではないかと想像してしまいます。現在は過疎と高齢化により往年の姿は見られませんが、これからも人々の営みが続いていくことを願わずにはいられません。